「いじめっ子」と「いじめられっ子」
私のはじめての自傷行為は小学一年生のときでした。
理由は同級生からのいじめでした。
ものを隠されるだとか、悪口を言われるだとか、殴る蹴るの暴行はまだいい方で。
一番堪えたのは、複数人の男子に抑え込まれ、害虫の死体を口に入れられたことでした。
幼い故の無邪気で残酷な「遊び」ですね。
された側からするとたまったもんじゃないですけど。
兎にも角にも、それを苦に行ったはじめての自傷行為はリストカットでした。
私の母親は双極性障害を患っており、幼い頃から幾度となく泣きながら手首を切りつける姿を見てきたので、「泣きたいくらい辛い時は手首を切りつけるもの」という認識があったのです。
それからというもの、自傷行為はヒートアップしていき、今残っているのは傷だらけの左腕だけです。
前置きが長くなりましたが、今日はそんな私が大人になった今、いじめに対して思うことを綴っていきたいと思います。
学校内などでいじめが起きると、日本では「いじめられた子ども」の心のケアをスクールカウンセラーなどが行います。
私もスクールカウンセラーの先生に随分お世話になりました。
「いじめられっ子」の心の傷が最大の問題になっているんですね。
けれど、アメリカなど、欧米諸国では、いじめが起きると、「いじめた子ども」の心のケアの方に力を入れるということはご存知でしょうか。
欧米では、「いじめられっ子」よりも、「いじめっ子」に問題があるという認識がポピュラーなんだそうです。
よく良く考えれば、「いじめっ子のほうがおかしい」という考え方はとても理にかなっています。
誰かをいじめないと気が済まない人は、どこか心に問題を抱えていると思いませんか?
私はそう思います。
「いじめられっ子」にも問題はある、という考え方は私は間違っていると思います。
なぜなら、「いじめっ子」は、いつもいじめている子がいなくなったら、次のターゲットを探すからです。
誰でも良いのです。自分から見て「こいつは自分より格下」だとか「こいつはなんか気に入らない」と思う相手なら誰でも良いのです。
いじめられっ子からすればたまったものじゃないですよね。
だってただ単純にそのひとが気に食わないって感情だけで、一方的に攻撃されるのですから。
私もこのことに気付いた日はそれはそれは腹が立って仕方なかったです。
ところで、なぜ日本と欧米でここまで「いじめっ子」「いじめられっ子」への認識がズレるんでしょうか?
私なりに考えてみました。
突然ですが、私はクリスチャンです。
だから分からないことがあればいつも聖書を開きます。
私にとっての聖書は人生の教科書だからです。
日本ではキリスト教信者はまだまだ少数派ですから、私は自己紹介の際に「クリスチャンです」と言うことが多いです。
ですが、欧米などではなかなかそんなことはききません。
なぜなら、ほとんどの人がクリスチャンで、イエス・キリストを信じているからです。
だから、あえて言う必要などないのです。
むしろ、無神論者の方のほうが自己紹介で語ることが多いのでないでしょうか。
信仰の深さに差はあれど、家族がクリスチャンであれば、産まれた時から神さまがいるのが当前で、聖書の御言葉は一般常識だったりします。
日本ではそんなことは無いですよね。むしろ聖書など、じっくり読んだことがない人の方が大多数ではないでしょうか?
私はそこから認識のズレが生じるのでは?と思います。
「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」マタイ5:44
とあります。
「復讐するは我にあり」という言葉通り、神さまは全てご存知で、罪を犯した者のことは、神さまがさばいて下さいます。
だから、人が人を憎むことによりさばいたり、復讐したりしなくて良いのです。
「愛する者たち、私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています」Ⅰヨハネ 4:7
ともあります。
神を知るものは愛し合うべきなのです。わたしたちクリスチャンはそれを知っています。
クリスチャン人口が多い欧米では、これは常識的なことかも知れません。
だから、迫害された側の「いじめられっ子」よりも、迫害する側の「いじめっ子」にこそケアをーー言わば救いの手を差し伸べるのでは?と思います。
真に救いが必要なのは、救われていない者、つまり愛を知らない者なのです。
愛を知っている人の心は豊かです。隣人を愛す人は隣人のうちにある自らのことも愛せます。愛は連鎖します。
けれど、愛を知らない者は自らですら愛せないのです。
いじめによって人をさばくものは、さばいた相手のうちにある自らのこともさばきます。
それそのものも、神からのさばきなのかも知れませんね。
この通り、迫害する者に対しては既に神さまが復讐してくださっています。
だから迫害されたってーーいじめられたって、いじめっ子を恨み続ける必要はないと私は思います。
だから私はもう、重荷を背負ってはいません。私をいじめた人のためにもお祈りをしています。
私をいじめた人たちも、神さまと出会い、愛を知ればそんなことはもう出来っこないからです。
この記事を読んでくださった方の中で、「いじめられっ子」だった方はいらっしゃいますか?
もしまだいじめっ子を恨んでいるのなら、もうそんなことはしなくていいんだと伝えたいです。
すぐには難しいと思います。私もほんとうに許せるまでにすごく長い年月がかかりました。
けれど、心から許せるようになったとき、今まで背負ってきた重荷はなんだったのだろうと、不思議なくらい心が軽くなりました。
憎んでいる相手のうちにある自分自身すら憎み、嫌ってしまっていたのです。
あなたは何も悪くありません。だから憎む必要も恨む必要もありません。
いつかあなたがその重荷をおろせる日が来るよう、心からお祈りしています。
この記事を読んでくださった方の中で、「いじめっ子」だった方はいらっしゃいますか?
お久しぶりです。いじめられっ子のるるです。その説はお世話になりました。
私はもうあなたを恨んでいません。憎んでいません。あなたの幸せこそ、深く深くお祈りしています。
どうか愛を知ってください。
誰かを嫌った代償に、自分も嫌いになってしまわないでください。
誰かを愛せる自分のことを愛してあげてください。
あなたなんて幸せになってしまえばいい。
最後までお読み頂き、ありがとうございます。
私はあなたの顔も知りませんが、あなたのことを心から愛しています。