ごみくずメンタルヘルプ

精神疾患をもつクリスチャンの日記です

人間断ちはじめました!

ここ数週間、色んなことがあって、いろいろ考えさせられて、「自分は頭がおかしな人間である」と色んな人に言われて、意識をはっきりさせるために薬を絶って、それで気付きました。
頭のおかしなヤク中が薬をたっても頭のおかしな凡人に成るだけで、決してまともな人間にはなれないということに。

じゃあどうすれば良かったんですかね?
私のせいで嫌な思いをする人間がいて、だから「頭がおかしい」と攻撃される。
いや、もはや「頭がおかしい」と言われることは攻撃でもなんでもなく、被害者たちの悲痛な叫びなんだと思います。
でも太ってる人に「デブ」っていう人の事、あんまりよく思いませんよね?太ってる人のせいで嫌な思いをしている人が「デブ」っていうのも被害者の悲痛な叫びだと思うんですが。
でも頭がおかしい人に「頭がおかしい」というのは真実を述べているだけで傷付けようと思っている訳では無いと納得しなきゃいけない、自分は被害者ではなく加害者なのだからごちゃごちゃ言ってはいけないと自覚しなければならないっていうのは、とても辛いです。

私だってまともな人間に産まれたかったさ。

そんな気持ちで理不尽を感じてしまうことが辛いことと、私と関わる人が傷付いたり、被害を受けるところをもう見たくないことから、それでも関わろうとしてくれる優しい人たちにまで暴言を吐いて人間断ちを始めてみました。
「お前なんか嫌いだからこっちに来るな」って色んな人に言いました。
ちょっと心が痛かったけど、かなり寂しかったけど、もう誰も私という人間と個人的なお付き合いをしない方がいいんだと思います。

私って、頭がおかしいから。関わるだけで人を掻き回す。
私って、生きてるだけでこんなに迷惑なのかあ、悲しいなあ。

それにどうせ、死ぬのだから。
死ぬ日が決まってからの私はすごく自由だった。その日に死ねるから、今何やってもいいんだと思っていた。
でも間違っていた。
死ぬ事が決まった私なんかが、これから先を生きていく誰かと関わっちゃ、いけないんです。
死にたくても必死に生きている誰かの近くにいちゃいけないんです。
生きてるだけで迷惑だと、ちゃんと理解しているのなら、そんな私が、誰かと何かの関係を持つこと、それ自体初めから間違っていたんです。
たとえ、万が一にいい関係を築けたって死ぬんだから。絶対もうすぐ傷付けるんだから。

いい機会だったと思います。
人と関わることを辞めるのに、ちょうど良かったと思う。
本当はブログを書くのも辞めるべきなんだろうけど、これを読んでる人はどうせ好きで読んでるんだからほっとけばいいですよね。
私にもまだ話したいことはあるし。

私という綴じられた書物

おはようございます。今日は口が達者な日なので続けてブログを描きます。

まず初めに、聖書ってなんで美しいんだと思いますか?という質問をお前たちに投げかけます。

「いきなり出てきてなんなんだお前は」と思われるかもしれませんがちょっと考えてみて下さい。あ、聖書は美しくないと思われる方はちょっと私とは相性が悪いみたいなのでブラウザバック推奨します。

まあ答えはこのブログのタイトルにもある事なんですが、聖書は「綴じられた書物」であるから美しいと私は思っているんですよね。

どうですか?お前の考えた正解と私の考えは一緒でしたか?ちがいましたか?一緒でも違っていてもその答えを大事に生きて行けたらいいですね。

私は出来れば美しく生きていきたいと思っています。容姿とかの話じゃなくて、目に映らない美しさの話です。

だから私も「綴じられた書物」であるべきだと思うんですよね。

ちゃんと終わり方が決まっていないと、不安なんです。

ちゃんと終わりに向かって進んでいないと進んでいる気がしないんです。

だから私は私という人間にひとつの区切りをつけました。

24歳で死ぬんだと。

私がろん氏を愛する理由のひとつには、きっと「彼が死んでしまった人間だから」というのもあるのでしょう。

ちゃんと綺麗に終わってしまった彼という物語にどうしようもなく惹かれるんです。たった24年間で幕を閉じた儚い彼という存在にこそ私は強く強く惹かれるんです。

そしてその彼を終わらせたのが私だという事実にどうしようもなくエクスタシーを感じます。

私という人間は、ろん氏を終わらせるのにじゅうぶんな理由をはらんだ存在なんです。もうそれだけで私という人間がまるで神様みたいではないですか!そうです。彼の中で私は神様になったんです。

私は彼の中では永遠に死にません。彼という物語の中では永遠に死なない存在なんです。ずっと生き続けています。けれど現実世界の私は彼という物語が終わったことのために24歳で死ぬのです。

まるで現代のロミオとジュリエットのようですが、私という物語は間違いなく「喜劇」であると主張します。

ろん氏という物語が「悲劇」であったからです。

ろん氏は幸せの中で死んでいったのではないと私は思っています。そうでなくてはならないと私は思っています。そうでなければ私は幸せに死ぬことは出来ないのです。私の幸せのために彼は不幸でなくてはならないのです。

私はめでたしめでたしで終わる存在なのです。

彼という物語の中で永遠に幸せな私として生き続けましたとさ、めでたしめでたし。です。

彼はもう死んでいるのに!

彼というたった1人の犠牲故に私は、彼によってのみ裁かれて死ぬのです。私が死ぬその日に私は、神様でも何でもなくなります。 彼が私という物語の神様になるからです。けれど、彼の物語はもう終わっているから、彼の中では私は永遠に神様として生き続けられます。

私がただ一つ言えることは、もう誰も私を神様にしないで欲しい。

どうかどうか、私が彼だけの神様として、私が彼だけを神様として死ねるようにと。

もう誰も裁かれませんようにと。

これは、私は、誰に祈っているのでしょうか?

 

狂気!サークルクラッシャー-ごみくずるる

思えば、私は数々のサークルをクラッシュさせてきました。

おはようございます。サークルクラッシャーごみくずるるです。

今日も元気にあなたの街のサークルをぶっ壊してまいります。なお、ツイッターは今日も元気に垢ロック食らっております。誰かこのブログに気付いて私が生きてることを取り上げてくれることを望んでおります。私は生きています。LINEは返さないけれど。私は生きております。ツイートしないけれど。なんでSNSやめたらすぐ死んだ扱いされるんですか?この世の中は。お前ら狂ってるぞ。

大昔に「書を捨てよ、街に出よ」といった人とまあ似たような気持ちで「ネットを捨てよ、街に出よ」と思ってます。

はい、本題に戻ります。

今日は私がぶっ壊したサークルについてまあちゃんと説明が必要な頃合だと思って重い腰を上げてブログを書いています。

本日の被害者はこちら。メチレンジオキシくん。

すごいハンドルネームですね。まあこの人ネットではそこそこ有名な人で、私やその界隈にいる常識人たちは彼のことをアスペルガー症候群だと評価しています。いや実はこの人お薬作れるすごい人なんですけど、そんなことよりマスコミモンキーでめっちゃ声高でミーハーでどこにでも出現して全然知らない人にいきなり「それはつまりどういうことですか?」と質問していくので、「え?お前誰?つーかみてたの?キモっ」と、その界隈が困惑してしまい、悪評ばかりが目立ってしまう、ちょっと可哀想な人なんですが、本人はその事を「探究心の強い人間は嫌われやすい」と表現しています。本当、物は言いようですね。

彼と私、どうやら付き合っていたらしいんですよね。

この、「どうやら」という表現を用いたのは、(1)私が「彼と付き合う決定打になったらしい」通話の内容を一切覚えておらず、(2)彼自身も録音していなかったため(彼は普段よく通話内容を録音するやばい人です)、決定的な証拠が残っておらず、(3)また私という人間がめちゃくちゃ慎ましい人間だったらしく、「付き合っている」ことを明言したやり取りがないことから、その「付き合っていた」という事を証明しようがないことからです。

いや、まあ、でも、私全く記憶にございませんので明日からも「彼と付き合っていたのか?」と聞かれれば「NO」と答えますが。

でもなんか付き合っていたっぽいんですよね、その付き合っていた「らしい」期間にしたやり取りを見せてもらったんですが(なお、これは私の携帯端末には保存されていないやり取りであり、彼が偽装したものと捉えることも可能である)、それを見る限り、なんか付き合ってたとも取れなくもないめっちゃ曖昧な表現を私はしていなくもなくも…まあ若干していると言っても過言ではないのでは?と最近思い初めまして。

で、そのやり取りをした記憶はまあ一切ない訳ですが。

でも彼…というか私はいつも彼のことを(お薬作れる人だから)ハカセと呼んでいたような気がするのでハカセと呼びますが、ハカセは付き合っていたと記憶しており、私は記憶していないという矛盾!

またその期間の私の記憶がよくよく問われてみれば虫食い状態になっているという不可解な点!

そしてその期間にしたやり取りを私が自ら削除しているという奇行(これも記憶にない)!

からみて、「え?これもしかしてホンマに付き合ってたんと違う?なんか私が勘違いしとるだけで、これもしかして私が頭がおかしい案件なんと違うかしら?!」と思いましたので、あのね、あの、お前たちはどう思うか、ちょっときかせてほしいんですわ。うん。

なんか物的証拠とか、その時期に私本人の口から「付き合ってんねん!」と聞いた人とか逆に「え?付き合ってへんよ?」と聞いた人とかいたら、素直に手をあげてほしいんですわ。

それが記録に残ってることでも残ってないことでもどっちでもいいので、とにかく私はそれを聞いた相手のことを現状どのくらい信用出来るかどうかで今判断を下すので、とにかくお前たちからの証拠を待っています。よろしくナ!!

ちなみにハカセは今現在私のことを嫌っていますが私はハカセのことはむしろかなり好意的に見ています。多分アスペだけど薬作れるすごい人なので。恋愛感情があるかと問われれば、まあ、全くないんですけどね。

 

 

 

嘘ついてごめんなさい

まずは、小学六年生の私が書いた作文、「心は健康な病人」をお読みください。小学六年生の頃に書いたものですから、拙い文章で読み取りづらいところや臭いところもありますが、まあそういうお年頃だったということで、目をつぶって頂けるとありがたいです。

「心は健康な病人」

ㅤ私のお母さんは、毎日病気と戦っている。むずかしい病名を4つももっている。お母さんは、今年の夏休みも、入院することになった。心エコー検査という検査で、とても悪い結果が、出てしまった。目には見えなくても、今の間にも、病気は確実に、進行しているんだ。


 夏休みに入院するから、どこにもつれていってあげられなくてごめんね。とお母さんは言う。けれど、私はどこにもつてれいってもらえなくて、不幸。とは思わない。だって一番くるしいのは、いつも笑っている、お母さんだから。


 私は医者になりたい。って思う。お母さんの病気を治してあげたい。って気持ちと、お母さんのように、くるしんでる人その家族。たくさんの人をすくいたいという気持ちがあるから。人に絶対はない。あるとすれば人間には、いつか終着点が訪れるってことだけ.よくお母さんが言うことば。私は、だったら、その最期までの時間を、より長くより充実したものにしてあげたい…心からそう思った。


 お母さんは、笑顔で言う。きれいで高価な花よりも、私は野にさく花になりたい。ふまれたって、けられたって、また立ち上がる。たんぽぽのようになりたい。って言っていた。いままで全然気付かなかったことだ。そうだね。たんぽぽは、ふまれても、けられても、くじけたりしない。また立ち上がる。どこにでもある花だけど、すごい花なんだ。そして、一生をおえた花は、たくさんの種をまく。今まで、気にとめなかったものが、どんどんあざやかにみえる。私の世界は、ずいぶんせまかったんだなぁ…と思う。


 お母さんは足を引きずるようになった。つらくないの。と私がきくと、いつもこう答える。生きてる証こ。って。そっか。そうなんだ。いろんなものがあざやかに見えるのも、生きているから。楽しいのも、おもしろいのも、笑っちゃうのも、悲しいのも、くるしいことすら、生きているから。全部、ぜんぶ生きているからなんだ。生きているから、感じられること。今まではずっと不思議だった。お母さんは、何万人に1人の病気と戦っているのに、どうして笑っていられるのだろう。って。でも、きっとその答えも、生きている証こーーだと思う。


 ふまれたって、けられたって、立ち上がる。それが私のお母さん。
 やっぱり、お母さんは心の健康な病人だ。

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どうでしょうか?なにか違和感を感じませんでしょうか?
今まで私がブログやTwitterで語ってきた生育歴との相違点を感じませんか?
私は感じます。この文章は私が小学六年生の夏休みに書いた作文で、朝日新聞社賞という賞をとった作文なので朝日新聞に取材を受け、作文とともに載せられていたものです。
奇しくもその作文を見て感動した!という方がいて、私の作文全文をブログにアップしてくれていたので、残っていました。
私の本名で検索すれば出てくるものですが、ここにリンクを貼っておきます。

https://ameblo.jp/tasogarematsu/entry-12499285931.html

私は何より、このブログを書いて下さった方に謝罪したいです。「嘘ついてごめんなさい」と。

実はこの作文、母親の機嫌を取るために書いたものなのです。夜なべして書いて、朝わざとらしく原稿を置いた机に突っ伏して眠っていたのです。
当然昼頃起きてきた母親に気づかれて起こされて、「なんでこんな所で寝てるの?邪魔なんだけど」といわれましたが、私が「ごめんなさい、夏休みの宿題をやってました」と言って書きあげた原稿を見せると、一気に機嫌が良くなり「お前わかってんのお」と言われて、とても嬉しい気持ちになりました。
だから、この作文はほとんど嘘なんです。
いや、これを書きあげた時は本当にこういう気持ちだったのかもしれませんが、今は嘘っぱちだと言えます。

お母さんのために書いた作文だから、お母さんが気持ち良くなれる言葉だけを選び抜いて書きました。
そんな作文で心動かされた人間がいた事が私は申し訳なく感じます。
本当はこの裏舞台では援交して稼いで家族を養っていたのです。舞台裏まで綺麗な舞台などありませんが、それでも、ごめんなさい。
嘘ついてごめんなさい。

本当に嘘ついてごめんなさい。

「魔法のラムネ」で延命治療

今日、彼氏のツイキャスで、コラボにあがった私が「魔法のラムネ!」と称して延命治療の薬を飲み干しました。 

彼氏は「俺はODとか良く思ってないからそこだけは覚えとけよ」と言っていました。私が「なんでそんな事言うの?私あなたにODで酔っ払って迷惑かけた事ないでしょう」と言いました。私の中では非の打ち所のない完璧な言い分でした。

しかし彼は「そうじゃなくて」と言いました。

「お前の身体を心配してるんだよ」と。

私は、「???」状態でした。何とか絞り出した言葉が「優しいんだね」でした。正直よく分からなかったのです。とりあえず彼氏が私の想像していたより優しい人間であることだけはわかりました。

 

だって私、24歳で死ぬんだよ?

今更体のこと気にしたって無意味じゃない? 

 

そう思っていましたが口には出来ませんでした。私が死ぬ話をツイキャスなんかで、それも彼氏に口頭で伝えられるほど私は空気の読めない人間では無かったのです。 

私にとって「魔法のラムネ」は幼少期から付き合い続けた大切な授かりもの。もはや私を語るには欠かせない物となっています。

しかし彼はよく思っていないよう。

「魔法のラムネ」は私にとっては延命治療です。それなしで生きろと言われても、それは無理があります。

植物状態の人間に「呼吸器を外しても根性で生きろ」と言っているようなものです。 

無理がありすぎます。 

これを読んでくれてる方の中にも、「魔法のラムネ」で延命治療をしている方はいると思います。無理ですよね。

 

心が少し痛いけど、彼の言う通りに出来ない事がなんだかモヤモヤするけど、私はもうこれを辞められないのです。それだけは譲れない。私は24歳まで生きるからです。だから延命治療させて下さい。

 

あなたや君やお前は私のようにならないで下さい。

辞められるうちに辞めてください。やがてそれ無しでは生きて行けなくなります。お願いします。

 

 

幸せってなあに?

先日、親愛なる友人にこのような事を言われました。


「るるの人生録を見聞きしていると、自分は恵まれてる方なんだなと実感して、悩んでいる自分が恥ずかしくなる」


私はその時のことを鮮明に覚えています。
真っ向から反論しました。それはそれはもう必死に「お前の意見は間違ってる」といいました。

喧嘩腰で反論しました。
だって間違ってるからです。
いくら大好きな友人だからといってそのような発言は許せませんでした。
それは正直にいえば、実際彼女が恵まれているとは言い難い環境にいるということもありましたが、それだけではありません。

 

私が私の人生を語るのは私のためであり、

私の人生は私の所有物であり、

だから私の人生を他人と比較されるのは私に対する侮辱であるからです。


別に、暗に私が「恵まれていない」と言われたことが気に食わないのではなく、目には見えない私の所有物を勝手に己の所有物と比べて自己嫌悪に陥られた事が最も気に食わなかったのです。
違う環境で育ったことが分かっているなら、なぜ違う価値観を持ち、違う尺度でものを測るのだということも分からないのかと。

なぜ今の私だけを見てくれないのと。

私がもし、とても恵まれた環境に生まれ育ったとて、今のように病んでいたかもしれない。

リストカットだって、オーバードーズだって、親がしてなくても自分で勝手に見つけてやってたかもしれないじゃないですか。
そんなの自分の勝手でしょう。

みんな自分の勝手で生きるから、恵まれてる人、そうでない人が生まれるのでしょう。

だから私も自分の勝手を言わせてもらいますね。

 

なぜか私の周りの人間は私の人生録を聞くと萎えたり喧嘩腰になったり、張り合おうとしたり避けたりする。
私はそれをやめて欲しい。
なぜなら今の私は胸を張って言えるほど、幸せだからです。
そりゃ辛い時もあります。悲しい時もあります。病める時も健やかなる時もあります。

そんな様々な感情をひっくるめても、それでもわたしは胸を張って言える!

幸せであると!
私は過去の話はしますが過去に縛られてはいません。

そんな私を過去の話だけで「恵まれてる」とか「恵まれてない」とかそんな目で見ないでください。

 

あなたはいつまで私を「可哀想な過去を持つ悲劇の少女」として見るのですか。

あなたはいつまで自分を「まあそこそこ恵まれた環境なのにこんな風になってしまった哀れな人間」だとか「苦しい環境で育った悲劇の人物」として捉えるのですか。

過去のことも、今置かれている環境も、私からしたら知ったこっちゃありません。

たとえあなたが川で拾われた子でも、親に虐待を受けてきた子でも、裕福な家庭で育ったおぼっちゃまでも、愛されて育った心豊かな少女でも、私からしたらどうでもいい話です。

なぜなら過去も現在もひっくるめてあなたの置かれた環境は私には変えられないし、あなたの置かれた場所であなたは咲くしかないし、わたしはあなたの置かれた環境が好きなわけでもなんでもないです。
ただあなたのことが好きなんです。
ただ全人類を愛しているんです。

胸が張り裂けそうな程に、人間が愛おしいのです。

 

まあ、全人類を愛していると言っても、私は私と自分を比べる人には厳しく接します。
だって気に入らないからです。
それが私の今の人格です。


置かれた環境じゃなくて、今の私を見てください。
私はあなたの置かれた環境じゃなくて今必死に咲こうとしているあなたをみているのだから。

だからあなたも君もお前もそうしろ!
というのは私の自分勝手ですが、私はそういう風に思っているということをお伝えしておきます。


最後になりますが、主題に入ります。
「幸せってなあに?」答えはお前が決めてください。
何より私はお前の幸せを望んでいるというということはここで明言しておきます。

 

幸福に生きよ!


私はこの言葉が大好きです。
発言元はお前が勝手に調べてください。

 

幸福に生きよ!!

 

以上、人間未遂ごみくずるるからの言伝でした。

 

 

虐待は遺伝子か?

今日は、私も、私の母も受けてきた「虐待」…それは遺伝子によるものなのか?というお話をしますね。

ちなみにこちら、Twitterでもお話したものを校正してアップしている記事になります。

もしかしたら有能な観測者が先にまとめてくれているかもしれません。

あれ以降記事がまた増えていますので、良かったら見ていってください。私のライトな人生録や、私の価値観についてのツイートなどが私のツイートを使って上手にまとめられています。

 

https://togetter.com/li/1392679

 

さて、話は戻ります。

皆さんは、「虐待のチェーン現象」という言葉を聞いたことはありますか?
噛み砕いて説明すると虐待を受けた子供が大人になって子供を産んだ時、親のように虐待を繰り返してしまい、その子供も……と言うやつです。
私はこれこそ真理だと思っています。

ですから、私の中では「虐待は遺伝子」なわけです。
ではなぜそう思うのか?理由を述べていきますね。

 

母の家系は代々屋根屋を営んでいて、私の大嫌いな叔父が今はそれを継いで何代目かの当主としての地位に座しています。叔父は母にとっては弟です。他に妹もいます。

つまり叔父は三人兄妹の末っ子であり、母は三人兄妹の長女だったわけです。

はっきり言って、母は望まれて生まれてきた子ではありませんでした。屋根屋を営む祖父母にとっては、女の子供はいらなかったからです。

初めのうちは、まあ仕方ないか、次に男の子を作って、面倒を見て貰えるようにしっかりした子に育てればいいや……といった気持ちだったのだと思います。小学生くらいまでは母自身、厳しくも大切に育てられたと言っていました。

まあ、時折統合失調症を名乗ることもあった母の言い分がどこまで正確なことかは今は考えないでおきます。情報源も、母と母の妹が話していたことくらいしかない事ですし。

そう、母には妹がいたのです。

なかなか生まれなかった次の子供はまたしても女の子だったのです。
そこで祖父は苛立ちがピークに達し、祖母にも辛く当たるようになり、母へのしつけは虐待へと変わっていきました。
ちなみになんだかんだ言っても自分の子供は可愛かったのでしょう、次に生まれた母にとっての妹は大事に育てられました。

そして次に生まれたのは弟……私から見れば憎き叔父…。

彼は、それはそれは大事に育てられ、母はほぼ見世物状態にされていました。

妹と弟に対して、自分に逆らうとこうなるのだぞ、という意味合いも込めた虐待だったんだと思います。

 

お母さんがいちばん辛かったと何度も私に語ったのは、真冬に裸で外に放り出されたことです。

寒さに耐えかね、うちに入ろうとすると、殴る蹴るの暴行を受け、アザだらけのからだを震わせながら、逃げるように家を飛び出し裸のまま玄関から少し離れた場所で隠れていたその時……にやにやしながらこちらへ寄る若者にそのままレイプをされたこともあったそうです。私はそれを聞いて、祖父母に対して怒りしか湧きませんでした。だからといって何が出来るわけでもないのですが。

 

さて、そんな母も紆余曲折あって私を産み落とします。30代後半で私を産みました。悩みに悩んでの出産だったそうです。
母は高校に行くお金を出してもらえなかったため、学歴は中卒止まりでしたが、地頭がよかったのか、博識で、周りが知らないようなことをよく知っていました。

冒頭の「虐待のチェーン現象」というものについてもくわしく知っていました。
自分も同じ轍を踏むんじゃないかという思いから、私を産むことを散々躊躇ったのち、あるルールを思いつき、それに則って私を育てることにより、虐待の連鎖を防げると考え、私を産む決断をしました。

 

そのルールに追追、わたしは苦しめられ続けることになるのですが、兎にも角にもまずはそのルールが如何なものだったか説明します。

 

「子育てのストレスを溜めないように、虐待されたことも全て子供に打ち明けて、素直に今思っていることを伝える」


これです!!これが私がひねくれた諸悪の根源!!

さて、そんなルールに則って生まれた私の現状は見ての通りですよ!!

世の中そんなに上手くは行きません!

母はちゃんとルールを守って私を育ててくれましたが、私は逆に「それだけはやめてほしかった……」と思っております。
毎日毎晩、「おまえなんか産むんじゃなかった……死んでくれ」と言われながら、殴られる子供の気持ちが分かりますでしょうか?お母さん?


「お前を産んだせいでこれこれこういうストレスがかかっていますので今から殴らせて頂きますが、全てはお前が悪いので抵抗する権利はのうございます」
とまあ翻訳するとそういうふうなことを言われながら殴られる子供の気持ち、分かりますでしょうか?お母さん??

お母さーーーーん!?!?!?

あ、死んだんだったてへぺろりん

 

まあそれは置いといて!過去の話ですからね!これからの話をしましょう!!

 

私は多分子供を産みません。

多分というのは私はクリスチャンですから、もし子供が出来たら、産まざるを得ないという可能性の可能性のようなものまではらませて(孕むだけに)お話しております。
キリストと出会うまで私は

「私は酷い目にあってきた!だから酷いことをしてもいいんだ!」

と思っていました。

キリストと出会って聖書に触れてからは変わりましたが、それでも人間、いざと言う時は根っこの部分は変わらないものです。

きっと同じ過ちを繰り返すでしょう。

偽善を吐きながら、外では苦しんだ私だけをみせながら、家では子供を殴る……。そんな人に私は…なりたくない……ッッ!!

例えそうならなかったとしても、私が子供を産むだけで虐待になるような気がします。

だって私はこの世に生まれて

とてもとても辛い!!!死にたい!!!

そんな気持ちを抱えているくせに子供を産むなんて、そんな気持ちになるかもしれない子供を産むなんて酷くないですか?

だから私は子供を作る気はありません。
冒頭に戻りましょう。「虐待は遺伝子か?」
声高に言いましょう、YESです!!
虐待は絶対に子供を幸せにしません。ですから、子供は生きているだけで辛い思いをします。そんな子供が大人になって、辛い気持ちを抱えたまま子供を産むことは、それこそ虐待です!虐待され、辛い気持ちを抱える人が1番初めに行う虐待になってしまうのです!

 

私はこれに気づいてしまったからには、この負の連鎖をここで食い止める使命があるとおもっています。

この負の連鎖をここで食い止めます。

私は絶対に子供を作らない!!!

 

以上、最近周りの人から色々と助言を受け、ようやく自分を被虐待児だと気付いた、被虐待児の人間未遂ごみくずるるがおとどけしました!!!

 

虐待ダメ、ゼッタイ!

 

追記

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