私という綴じられた書物
おはようございます。今日は口が達者な日なので続けてブログを描きます。
まず初めに、聖書ってなんで美しいんだと思いますか?という質問をお前たちに投げかけます。
「いきなり出てきてなんなんだお前は」と思われるかもしれませんがちょっと考えてみて下さい。あ、聖書は美しくないと思われる方はちょっと私とは相性が悪いみたいなのでブラウザバック推奨します。
まあ答えはこのブログのタイトルにもある事なんですが、聖書は「綴じられた書物」であるから美しいと私は思っているんですよね。
どうですか?お前の考えた正解と私の考えは一緒でしたか?ちがいましたか?一緒でも違っていてもその答えを大事に生きて行けたらいいですね。
私は出来れば美しく生きていきたいと思っています。容姿とかの話じゃなくて、目に映らない美しさの話です。
だから私も「綴じられた書物」であるべきだと思うんですよね。
ちゃんと終わり方が決まっていないと、不安なんです。
ちゃんと終わりに向かって進んでいないと進んでいる気がしないんです。
だから私は私という人間にひとつの区切りをつけました。
24歳で死ぬんだと。
私がろん氏を愛する理由のひとつには、きっと「彼が死んでしまった人間だから」というのもあるのでしょう。
ちゃんと綺麗に終わってしまった彼という物語にどうしようもなく惹かれるんです。たった24年間で幕を閉じた儚い彼という存在にこそ私は強く強く惹かれるんです。
そしてその彼を終わらせたのが私だという事実にどうしようもなくエクスタシーを感じます。
私という人間は、ろん氏を終わらせるのにじゅうぶんな理由をはらんだ存在なんです。もうそれだけで私という人間がまるで神様みたいではないですか!そうです。彼の中で私は神様になったんです。
私は彼の中では永遠に死にません。彼という物語の中では永遠に死なない存在なんです。ずっと生き続けています。けれど現実世界の私は彼という物語が終わったことのために24歳で死ぬのです。
まるで現代のロミオとジュリエットのようですが、私という物語は間違いなく「喜劇」であると主張します。
ろん氏という物語が「悲劇」であったからです。
ろん氏は幸せの中で死んでいったのではないと私は思っています。そうでなくてはならないと私は思っています。そうでなければ私は幸せに死ぬことは出来ないのです。私の幸せのために彼は不幸でなくてはならないのです。
私はめでたしめでたしで終わる存在なのです。
彼という物語の中で永遠に幸せな私として生き続けましたとさ、めでたしめでたし。です。
彼はもう死んでいるのに!
彼というたった1人の犠牲故に私は、彼によってのみ裁かれて死ぬのです。私が死ぬその日に私は、神様でも何でもなくなります。 彼が私という物語の神様になるからです。けれど、彼の物語はもう終わっているから、彼の中では私は永遠に神様として生き続けられます。
私がただ一つ言えることは、もう誰も私を神様にしないで欲しい。
どうかどうか、私が彼だけの神様として、私が彼だけを神様として死ねるようにと。
もう誰も裁かれませんようにと。
これは、私は、誰に祈っているのでしょうか?