ごみくずメンタルヘルプ

精神疾患をもつクリスチャンの日記です

病み垢クリスチャン

「メンヘラ」という言葉の受け取り方が多様になってから随分経ちます。

私がメンヘラという言葉を初めて知った頃には既に、「メンタルヘルス」という言葉の響きとはかけ離れていました。

 

「かまってちゃん」だとか「思春期」とか「中二病」のような良くいえばポップでライトな、悪くいえば滑稽で差別的なニュアンスが多分に含まれていました。

 

言葉は生き物ですから、人々のあいだで揉まれながら少しずつ成長と退化と変化を繰り返します。

古き良き日本語を大切にする、古風な考え方もそれはそれで良いと思いますが、私はあえて時代に逆らうことなく、移ろいゆく言葉をそれもまた一興と受け入れることにしています。

 

ですから、私が今日、この投稿でいうところの「メンヘラ」とは《メンタルヘルス》の意ではなく、ライトでポップでどこか滑稽な差別的な意味合いのものだと思って下さい。

 

私は「メンヘラ」です。

心が弱く、なにかに縋らないと生きていけませんから、この世の中は生きづらいです。

 

生きやすい世の中になってほしいものです!

 

私はメンヘラであるうえ、メンヘラであることを全く隠していません。

それは現実でもネットでも同じです。

20字以上100文字以内で自己紹介をしなさいと言われれば必ず「メンヘラ」という言葉を使用するでしょう。

 

そして同時にクリスチャンでもあるのですが、病み垢などで「死にたい」「辛い」「自傷した」「ODした」という発言を繰り返していると、

「クリスチャンなのにそんなことしてもいいの?」という質問をしばしば耳にします。

 

いいわけないでしょう!

わたしたちは自殺をしてはいけませんし、欲をかいてはいけないので、ODなどでラリって遊んで暮らしていいわけがないじゃないですか!

 

じゃあ何でそんなことをしているの?

と聞かれると困ってしまいます。

だってそうしないと生きていけないんです。

 

言い訳になってしまいますが、産まれたときから、わたしのそばにはお薬がありました。

両親ともにアル中でヤク中。

だから薬をスニッフ(=すり潰して鼻から吸う)することに対して、全く抵抗がありませんでしたし、中学生になるまで、静注が危険な行為ということも知りませんでした。

 

今は物心ついて善悪の分別がつくようになりましたが、辞める気も辞められる気もしません。

 

もう異常だよ。

 

ですが私は、病み垢を辞める気は更々ありません。

 

前置きが長くなりましたが、では何故、私が自らを偽らず、他者から見れば「醜態」と捉えられても何らおかしくない生活を発信しているのか。

 

私のように精神疾患を抱えて毎日辛い中で生きている人間が、それでも死ぬことなく、必死こいて生きているところが、死にたい誰かの目に映れば、少しでも生きてみようかなと思ってもらえれば、それほど嬉しいことはありません。

 

病み垢界隈にいる方。

ネットにしか救いを求められない方。

精神疾患を抱えている方。

そんな、毎日苦しい、辛い、死んでしまいたいと思っている方に一番届くのは同じ土俵に立っている、同じ気持ちを持っている人の声ではないでしょうか。

 

わたしたちは弱く産まれてきました。

またはとても辛い環境に産まれてきました。

 

だから支え合うべきというのは暴論でしょうか?

偽善に見えるでしょうか?

それでも私はそうやって生きていきたいと思うし、ですから弱く生まれてきた自分を恥だとは思いません。


私は死にたい人間ですが、周りの人には生きていて欲しいと思います。不思議と私の周りにもそんな人が集まっています。

その中の一人が死んでしまったら私はまた死にたくなると思います。だから私は生きなければならないのかもしれないと思っています。

 

綺麗事でも構いません。

人は往々にして綺麗なものに惹かれるものですから。

 

死にたい人が居るのなら、どこへでも飛んでいきたいです。

私もまた、そうすることによって救われるからです。

 

最後までお付き合い下さってありがとうございます。

あなたもわたしも、いつか死ななくてよかったと思える日が来ることを心よりお祈りしています。

 

 

わたしのマイノリティー

わたしはひとりぼっちで生きてきました。

 

中学2年の頃、両親が他界しました。

もともと親戚との繋がりも薄く、戸籍上も縁を切っていた両親ですから、わたしはほぼ自動的に天涯孤独の道を歩むことになりました。

父は私と母の目の前で飛び降り自殺をして、母はその後を追うかのように、半年も経たないうちに病死しました。

わたしが学校から帰宅した時には息を引き取っており、駆けつけた警官に救急車すら呼んでもらえませんでした。

 

中学生といえど、まだ幼かった私は、寂しい思いもしましたが、両親共に失ったその時、少し安心してしまったことをよく覚えています。

 

幼い子供にとって、家庭は世界で両親は神さまです。

物心ついた頃からそれは徐々に変化し、成長していくものなのですが、わたしにはそれが薄かったように思います。

 

少なくとも、両親ともになくしてからも、しばらくは彼ら2人が私にとっての神様でした。

 

父はアルコール中毒、母は重度の精神疾患と身体障害を抱えていたのですが、二人揃って複雑な家庭で育ったことが原因でしょうか?

私の家庭は非常に閉鎖的で、今思うと異常でした。

父の晩酌の為に午後4時には必ず帰宅することが我が家の絶対的なルールで。

友達と遊ぶこともほとんど許されませんでした。

また、母の抱える精神疾患双極性障害》のため、躁状態の時の我が家は非常に良くお金を使いました。

ですが両親ともに病気ですから、稼ぎもなく、生活保護を受けていた我が家に余裕はなく、明日の食い扶持もしれない身でそのようなことをすれば…当然どこかで誰かがその穴埋めをしなければなりません。

そこで白羽の矢がたったのが私です。

まだ小学低学年だったころは、家族3人で近所のコンビニへ出かけ、頭を下げて廃棄のお弁当をもらったりしていたのですが、それも出来なくなった時期ーー

わたしは深夜、ひとり家を出て、体を売るようになりました。

 

この頃のことを思い出すのは未だとても辛く苦しいため、詳しくはまだ書けませんが、「拾ったよ」と嘘をついて両親にお金を渡す私も、

薄々感づきながらも何も言わずにお金を受け取る両親も、異常だったといまは思います。

 

ですが、それが私たち家族にとっての絆の形でした。

けれど、私も中学2年の多感な時期、そんな生活には息切れをしていたんだと思います。

それから解放されるとわかったことに、ほっとしてしまっていたのです。

 

もちろん、それ以上に両親との別れは悲しかったし、ほっとしてしまった自分を許せなかったりもしました。

 

実際、児童相談所の一時保護所に入れられたとき、私に「つらかったわね…」と言ってくる先生に、

「いえ、私全然辛くありません、むしろここにきて安心しています。正直親のこと、あまり好きじゃなかったので」

と冗談めかして言ってみせると、困惑したような、それでいてどこか気持ち悪いものを見るような顔で「そういう言い方は良くないわ」と窘められました。

里親さんのおうちに行った時にも似たような発言をしましたが、こちらは毎日のように親とはいかに尊いかをこんこんと言ってきかされました。

 

先生や里親さんの言ってることは道徳的に正しいことだと思います。

でも、道徳ってなんだろうと思います。

私は完全に自分が正しいなんて思わないけど、それでも親が死なずにまだ生きていたら…と考えるとどうしても辛いのです。

私の方が先に自殺していたかもしれません。

それでも、私の家族は尊いものだったのだろうか。

それでも私は彼らを愛して然るべきだったのだろうか。

道徳は人の心のためにあるのではないのか。

ならば、私の心は人の心では無いのだろうか。

私の心はあの家庭に守られてなどいなかったのだから。

 

だけど先生や里親さんが言ってることは何一つ間違いじゃありません。

道徳は大多数の人を守るためにあるのでしょう。そして私は多数派の人間ではなかった。

 

ときに、道徳は人を傷つけます。

誰かを守ろうとすれば、誰かが傷つく世の中です。ならばより多くの者を守ろうとするのは自然なはたらきです。

それでも私は私を見て欲しい。

私がいかにマイノリティーであろうと、見ないふりをしないで欲しい。

生まれてきてしまったのだから。

 

 

生まれる姿を間違えてしまった話

※延々と辛い辛い言っているだけの生産性ゼロの記事です。苦手な方は見ない方がいいです。

 

 

「身体完全同一性障害(BIID)」をご存知でしょうか。

 

私は現在「双極性障害Ⅰ型」と診断されていますが、これは誤診だと思っています。

なぜなら双極1型の様相を呈しているのは、ストレスが原因で、ストレスを感じている原因は、私がBIIDという疾患を抱えているからです。

 

ですから、「双極性障害Ⅰ型」は結果であり、原因ではありません。

 

このBIIDという疾患は、日本ではほとんど知られていません。ですから、診断もおりていません。あくまで自己診断です。

 

BIIDの診断を出せる精神科医がそもそもこの国にいるのかすら、私は知りません。

 

BIIDとは、「五体満足」な体に強烈な違和感を持ち、体の一部(私で言うと両足と左目です)を自ら望んで欠損したいという気持ちに駆られる病です。

欠損したい、切断したいと思う部分は、健康上はなんの問題もないのにも関わらず、どうしても違和感を感じるのです。

 

ここまでお読み頂き、どう感じましたか?

「理解出来ない」「意味がわからない」と思われる方が大半だと思います。

私自身もどうしてこんな気持ちに駆られるのか、いまいち良くわかっていないので、理解出来ないと思われるのは仕方の無いことだと思います。

 

もっと言えば、憤慨された方もいらっしゃるかもしれません。

「親からもらった五体満足な体を自ら失おうとするなんて」

「生まれつき手足のない人だっているのに」

 

そう思われる方もいて当然だと思います。

当然だとは思いますが、やはり、理解されないことはとても苦しいです。

 

もっと苦しいのは、この欲求を解消する方法がないことです。

いえ、あるにはあるのですが、それはほとんど犯罪スレスレのものだったり、誰かに迷惑をかけるものだったり、倫理観にそぐわないものだったりで、とても容易に出来るものではありません。

 

幼い頃からこのどうしようもない欲求と、決して社会に受け入れられない事実とに板挟みにされながら、なんとかここまで生きてきました。

 

が、それもそろそろ限界なようです。毎日まいにち足と目に走る強烈なムズムズ感に気が狂いそうです。

早くこれを何とかして欲しい。例えば合法的に足を切断する美容整形はないだろうか。と考えています。

 

私は間違っていますか。

私は間違ってるんだと思います。

 

例えばどうしようもない殺人衝動のある人間が、「人を殺したくてたまらないから、合法的に人を殺させてください」と言っているのと同じです。

正確には違うけど、とてもイレギュラーな欲求でわがままを押し通そうとしている点ですごく近いと思います。

 

毎日死ぬことを考えます。

いっそ殺してくれと何度も思いました。

 

五体満足で産んでくれた親に何か不満があるわけではありません。

だけど、私は生まれる姿を間違ったと思います。ただそれだけの事で、ただそれだけが毎日辛いです。

だから私は死にたいです。

 

 

「いじめっ子」と「いじめられっ子」

私のはじめての自傷行為は小学一年生のときでした。

理由は同級生からのいじめでした。

 

ものを隠されるだとか、悪口を言われるだとか、殴る蹴るの暴行はまだいい方で。

一番堪えたのは、複数人の男子に抑え込まれ、害虫の死体を口に入れられたことでした。

幼い故の無邪気で残酷な「遊び」ですね。

された側からするとたまったもんじゃないですけど。

 

兎にも角にも、それを苦に行ったはじめての自傷行為リストカットでした。

私の母親は双極性障害を患っており、幼い頃から幾度となく泣きながら手首を切りつける姿を見てきたので、「泣きたいくらい辛い時は手首を切りつけるもの」という認識があったのです。

 

それからというもの、自傷行為はヒートアップしていき、今残っているのは傷だらけの左腕だけです。

 

前置きが長くなりましたが、今日はそんな私が大人になった今、いじめに対して思うことを綴っていきたいと思います。

 

学校内などでいじめが起きると、日本では「いじめられた子ども」の心のケアをスクールカウンセラーなどが行います。

私もスクールカウンセラーの先生に随分お世話になりました。

「いじめられっ子」の心の傷が最大の問題になっているんですね。

 

けれど、アメリカなど、欧米諸国では、いじめが起きると、「いじめた子ども」の心のケアの方に力を入れるということはご存知でしょうか。

欧米では、「いじめられっ子」よりも、「いじめっ子」に問題があるという認識がポピュラーなんだそうです。

 

よく良く考えれば、「いじめっ子のほうがおかしい」という考え方はとても理にかなっています。

誰かをいじめないと気が済まない人は、どこか心に問題を抱えていると思いませんか?

私はそう思います。

 

「いじめられっ子」にも問題はある、という考え方は私は間違っていると思います。

なぜなら、「いじめっ子」は、いつもいじめている子がいなくなったら、次のターゲットを探すからです。

誰でも良いのです。自分から見て「こいつは自分より格下」だとか「こいつはなんか気に入らない」と思う相手なら誰でも良いのです。

 

いじめられっ子からすればたまったものじゃないですよね。

だってただ単純にそのひとが気に食わないって感情だけで、一方的に攻撃されるのですから。

 

私もこのことに気付いた日はそれはそれは腹が立って仕方なかったです。

 

ところで、なぜ日本と欧米でここまで「いじめっ子」「いじめられっ子」への認識がズレるんでしょうか?

私なりに考えてみました。

 

突然ですが、私はクリスチャンです。

だから分からないことがあればいつも聖書を開きます。

私にとっての聖書は人生の教科書だからです。

 

日本ではキリスト教信者はまだまだ少数派ですから、私は自己紹介の際に「クリスチャンです」と言うことが多いです。

 

ですが、欧米などではなかなかそんなことはききません。

なぜなら、ほとんどの人がクリスチャンで、イエス・キリストを信じているからです。

だから、あえて言う必要などないのです。

むしろ、無神論者の方のほうが自己紹介で語ることが多いのでないでしょうか。

 

信仰の深さに差はあれど、家族がクリスチャンであれば、産まれた時から神さまがいるのが当前で、聖書の御言葉は一般常識だったりします。

日本ではそんなことは無いですよね。むしろ聖書など、じっくり読んだことがない人の方が大多数ではないでしょうか?

 

私はそこから認識のズレが生じるのでは?と思います。

 

「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」マタイ5:44

とあります。

復讐するは我にあり」という言葉通り、神さまは全てご存知で、罪を犯した者のことは、神さまがさばいて下さいます。

だから、人が人を憎むことによりさばいたり、復讐したりしなくて良いのです。

 

「愛する者たち、私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています」Ⅰヨハネ 4:7

 

ともあります。

神を知るものは愛し合うべきなのです。わたしたちクリスチャンはそれを知っています。

 

クリスチャン人口が多い欧米では、これは常識的なことかも知れません。

だから、迫害された側の「いじめられっ子」よりも、迫害する側の「いじめっ子」にこそケアをーー言わば救いの手を差し伸べるのでは?と思います。

 

真に救いが必要なのは、救われていない者、つまり愛を知らない者なのです。

愛を知っている人の心は豊かです。隣人を愛す人は隣人のうちにある自らのことも愛せます。愛は連鎖します。

 

けれど、愛を知らない者は自らですら愛せないのです。

いじめによって人をさばくものは、さばいた相手のうちにある自らのこともさばきます。

それそのものも、神からのさばきなのかも知れませんね。

 

この通り、迫害する者に対しては既に神さまが復讐してくださっています。

だから迫害されたってーーいじめられたって、いじめっ子を恨み続ける必要はないと私は思います。

だから私はもう、重荷を背負ってはいません。私をいじめた人のためにもお祈りをしています。

私をいじめた人たちも、神さまと出会い、愛を知ればそんなことはもう出来っこないからです。

 

この記事を読んでくださった方の中で、「いじめられっ子」だった方はいらっしゃいますか?

もしまだいじめっ子を恨んでいるのなら、もうそんなことはしなくていいんだと伝えたいです。

 

すぐには難しいと思います。私もほんとうに許せるまでにすごく長い年月がかかりました。

けれど、心から許せるようになったとき、今まで背負ってきた重荷はなんだったのだろうと、不思議なくらい心が軽くなりました。

 

憎んでいる相手のうちにある自分自身すら憎み、嫌ってしまっていたのです。

あなたは何も悪くありません。だから憎む必要も恨む必要もありません。

いつかあなたがその重荷をおろせる日が来るよう、心からお祈りしています。

 

この記事を読んでくださった方の中で、「いじめっ子」だった方はいらっしゃいますか?

お久しぶりです。いじめられっ子のるるです。その説はお世話になりました。

 

私はもうあなたを恨んでいません。憎んでいません。あなたの幸せこそ、深く深くお祈りしています。

どうか愛を知ってください。

誰かを嫌った代償に、自分も嫌いになってしまわないでください。

誰かを愛せる自分のことを愛してあげてください。

あなたなんて幸せになってしまえばいい。

 

最後までお読み頂き、ありがとうございます。

私はあなたの顔も知りませんが、あなたのことを心から愛しています。